今日は群馬県富岡製糸場と、埼玉の川越に行ってきました。
製糸場は賑わってました。添乗員さん曰く、今日はまだ空いている方だと。
ガイドさんの案内で40分ほど見学、後は資料館を見学していました。
「繰糸場」のみが内部を見学することができて、他の建物は外見のみの見学。
それでも面白かったです。自分はやらなかったけど座繰り実演・体験コーナーがあって(毎週土曜、日曜、祝日)、糸を紡ぐ体験ができるみたい。

製糸場は、最初は国が管理して、その後は民間へ。それも3代くらい入れ替わって、27年前までは糸を紡ぎ続けたとのこと。
自分が生まれた時は、まだこの工場が動いていたんだと思うと、うわーって気持ちになりました。
埼玉で震度5地震があってもこの建物は無事だったといいます。

製糸場に務める工女さんは、辛い仕事を続けたイメージがあったけれど、夜間学校があった時代もあったみたい。
また、この富岡で働くことは一流工女よいうステータスにもなったようで、地方から研修に来て地元に戻る人も多かったとのこと。本当は15歳〜30歳だけど、年齢を偽って10歳で働きに来た子も。
勿論、製糸場は富岡だけではなく、この工場の周囲にも似た工場ができたり、他の地方でも工場はあった。
辛い目にあったイメージはそういうところから来ているのかもしれない。


あとは、工女さんの御給金は良い方だったらしいですが、当時は伝染病も流行っており命を落とす方も多かったとのこと。
場内に診療所と入院施設がありましたが、国元から稼ぎに来ている方の場合は遠方から家族が来れず、しかも伝染病だから誰も会おうとはしない。光もあれば、そういう影もあったようです。

最初の写真は東繭倉庫。レンガが美しい。レンガの積み方は「フランス式」と呼ばれているそうです(日本人がそう呼んでた)。建設の指導者はブリュナ氏。だからほとんど建物が洋風なんですね。
これだけの量のレンガを焼くの大変だったろうな。ちなみに日本でレンガを焼くことはまだまだ未経験だったので、瓦職人が焼いたらしいです(この説明ききながら村のこと思いだした)。

確かフランス人が最初の5年ほどは一緒に居て、製糸技術の指導を行い、診療所にも医師として勤めていたといいます。
指導者たちへの待遇は、住む場所の大きさも、御給金の額もとてつもないもので。っていうか新政府はそんなにお金あったのかとびっくりしました。

繰糸場の内部。


27年も経つのに保存状態が良いことにびっくりしました。
ここに電気が通るまでは数十年かかったとのこと。だから最初の頃は日の光のみでやってたんですね。



川越は、昔一度だけ来たことがあって、もう一度行きたいと思っていたので良い機会になりました。
お団子とかおからドーナツが美味しかった。
団子屋さんに、太一さんの顔写真が貼ってありましたよ。お散歩で来たんでしょうね。


時の鐘。